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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180701】対諭と議論の違い②

こんにちは(´・ω・`)

今日から七月ですね。
さて本日、本部前ではサイレント・アピールをするそうですので、話のネタに見に行こうと思っています。
僕は彼らにシンパシーは感じていません。何故ならば、そもそも彼らは信濃町界隈で飯を食っていた訳で、そこに復帰する事を求め、中からの改革を主張していますが、そもそも創価学会に教義的な問題があるという事を理解していません。

「諸法実相」という観点から言えば「諸法」とは創価学会の組織の姿全般であり、「実相」とはその創価学会の姿を造り出している実体です。この実相という観点で考えてみれば創価学会の組織の姿というのは「衆生世間」に当たりますが、その衆生世間を造り出しているのは紛れもなく会員活動家一人ひとりであり、その心(一念)に他なりません。

会員の心を変える事なくして、制度上ともいえる組織の上から改革を行うというのは、間違い以外の何物でもありませんが、その事に気付いてはいないでしょう。

一つの運動を煽る立場として、その認識の甘さが僕には大きな問題だと思えるし、それが故に僕は彼らの行動には何も共感する事はありません。

しかしどの様な事をしているのか、それは通行する人達にどの様な印象を与えているのか、そこに興味があって今日は話のネタに見に行くつもりです。

◆対論は無駄
さて本題、先日「のぶりん」のツイートを見ていたら、法華講らしき人とツイッターで対論をしている様子を観ましたが、そこでお得意の「偽本尊論」という事で宗門からの歴代貫首の開眼無きものを偽本尊という主張に対して、本尊口決七箇相承を引用して以下の様に述べていました。



ここでは「日蓮在御判」という事を書く意義について述べている内容で、これを引用して破折しているつもりの様ですが、これは大きな論理的な飛躍をしています。相承書では「勧請されているすべては日蓮(自分自身)という意味」とある内容をもって、何故かお題目が仏性の名前と言う事を主張してます。

論理的にぶっ飛んでますね。この引用は。

まず偽本尊という事で言えば、宗門の主張する偽モノとか本物なんて初めからありはしないのだから、そこを論点として進めれば良いのに、なぜか本尊口決七箇相承を引用し、しかもぶっ飛んだ引用している。そこが理解できないですね。

日蓮が文字曼荼羅を始めて顕したのは龍ノ口法難の直後、依知の本間邸で顕した「楊枝本尊」からでした。そして佐渡の流罪の地で「観心本尊抄」を著しましたが、それには「如来滅後五後百歳始観心本尊抄」とある様に、そこから観心の本尊である文字曼荼羅の事を「始(め)」た訳です。

その後、日蓮は佐渡流罪を赦免になった後、門下の四条金吾からの求めに対して釈迦仏開眼供養の事について語ったのが「釈迦仏開眼供養事」という御書ですね。
文字曼荼羅を顕した後も、門下の筆頭である四条金吾が釈迦仏を造立した事を責めずに、むしろその開眼供養の事について相談にのっている日蓮の姿は、初期の唱法華題目抄において語っていた本尊観を崩していない様に思えます。

また、そもそも日蓮の文字曼荼羅は「観心」のための本尊でもあり、そこで議論されるべきは「観心」という事が主題にならなければいけないはずが、そんな事をだれも議論すらせずに「本物か?」「ニセモノか?」に終始しています。

いや、、別に良いんですけどね。何故なら彼は「対論」をしている訳であって、それは「法諭」でも無いし「議論」でもありませんからね。

ただ一般的に自身の正統性の議論をするというのであれば、その文献は極力「正しいもの」を用いるべきですが、その事について彼に問いただしたところ、以下の回答を貰いました。



所謂、真書や偽書というのは関係ないようです。

ここで彼は「法諭」と言っていますが、正式には「法諭」ではありませんね。何故なら論理が先に述べた様に飛躍をしすぎています。彼が行っているのはあくまで法義を論ずる「法諭」ではなく、対決する「対論」であり、その目的は自分や自分が正しいと信じている組織を顕償するためだけであって、そこに法義への想いというのは一筋もありませんし、謙虚さもありません。

偽書とわかっていても、相手に勝った姿を示すためには関係なし。

こういった姿勢の「対論」、僕も広宣部の現役時代に多く行ってきました。

そして相手の知らない事、また理解の浅い事をついて示し、相手を黙らせ自分たちの優位を示す事だけに、様々な文献を利用してきたのです。

ただ最近になって思う事で、幾度も書きますが、僕自身も立正安国論から開目抄、観心本尊抄、一念三千理事などを読み直してみると、実は創価学会の主張していた事のちぐはぐ観を多く見つけました。それは御書の解釈の我田引水です。

そしてそれは、過去に対論で利用していた御書の中にも散りばめられていた事でしたが、対論していた時の僕はそんな事を気付きもしませんでした。

要は自分や創価学会が勝った姿を示せればよい。
その組織の正義の姿を造り出せればよい。

そんな事だけで、日蓮の説いた事や釈迦の述べた事に肉薄しようという思いは全然なかったんですね。

結果として二十年以上もその組織についていたわけですが、多くの間違いをしていました。

もう少し早い段階で知っていたら、仏法に対する造詣を深める事が出来たのかもしれませんし、関係していた部員には違う事を語ることが出来たはずです。

そして何よりも、創価学会の似非仏教に早く気づいていれば、組織内でももう少し異なった振舞い方が出来たのかもしれません。

そういう事から言えば、元職員3名の事を僕自身は強ち批難をする事が出来ないのかもしれませんけどね。。。

本当はそういう事を少しは気付いて欲しいのですが、まだまだ難しそうですね。

但し、そうはいっても今後も思索については継続するつもりです。

もうこんな不毛な「対論」なんて止めにしませんかね?


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