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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180626】体験偏重主義

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日は職場の人事異動に伴う送別会で、いわゆるパートナー社員という派遣の立場であれば、参加する義務はないんだけど、長年にわたり仕事を伴にしてきた人が転勤となるので「恥はかいても義理欠くな」という、母親から教わった教えを実践してました。

でもそれで深酒していては、致し方なしですよね。気がついたら乗り過ごして終点まで行ってしまい、帰宅が遅れました。

さて今回のお題。
前にも少し書いたことかもしれませんが、信仰体験というのは、ある意味で難物ですよね。

例えば祈った結果、その願望が成就したという事や、病気が治った、はては法華講や創価学会でも居ましたが、虚空会の儀式を見たとか、夜中に仏壇から金色の光が溢れたのを見たという話まであります。

それはそれ、一つの経験だと切り離して理性的に考えられれば良いのですが、問題なのはそれに執着をおこし、その時に信じていた事に縛られてしまうという事です。

これはこれで結構、根が深いんですよ。

僕なんかも「不可思議体験」とまでは言いませんが、青年部時代に結構な体験を幾つかしてましたので、その体験と当時の創価学会がリンクしている事から、当初様々な信濃町界隈の醜聞や、御大に関する事を教えられた時なんて、そりゃー大きな拒否反応がありました。

しかも組織の矛盾なんかも目にした時には、無意識に自分の中で「合理化」という心理が働いてしまい、なかなか本当の事に目がいかないんですよ。

「いやいや、それには何か深い意義があるんだ」とか「事実と真実は違うんだ」という思考が常に働くんですね。

要は自分が信じて実践し、そこで様々な祈りが叶ったとか、摩訶不思議な体験をしたという事が、自分の中でそれまでやって来た事を否定できない「呪縛」になり、そこを軸として思考が構築されてしまうんですよ。

喩えそれが間違っていようが、いまいがです。ここでいう間違いとは、論理的な不整合を持っている事をさしますが、要は論理的な不整合を体験という事が埋めてしまい、見えなくしてしまうんですね。

またそうして自分の中で作り出されてしまった固定観念を壊そうとすると、下手すれば人格傷害を引き起こす可能性もありますからね。

そして悩ましいのが、人は「一念」という瞬間の心により、周囲の環境をおも動かしてしまう力用があります。これは十如是でいう「如是体・如是力」に当たりますけどね。

そこの「一念」には「正義」も「邪悪」も「正解」も「間違い」も関係ありません。ようは力用が強いか弱いかだけなんですね。

結果、人はその体験に執着してしまい、思考の幅を狭め、ドグマに陥ってしまいます。

これは厳に気を付けねばならない事でしょう。社会の中でも言いますよね、成功体験に縛られて、結果として見誤るという事。

信仰の世界は特に気を付けなければなりません。


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