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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180619】勤行雑感

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日の大阪の地震は驚きました。
先週末から、千葉、群馬と続き昨日の大阪。

日蓮は、立正安国論の中で天災や天変地夭といったものは、正法誹謗等が原因であると述べていましたが、僕は違うと思っています。

地震などの災害というのは、地球にプレートという地盤が複数あれば、仕組み上避けられないものでしょう。この地球でしかも複数のプレートの上に乗っかっている島国に住んでいれば、地震にあうのは必定で、そこに住む人間として大事な事は、災害対策が常にどれだけ取れるかと、復興をどれだけ速やかに出来るのかを常に考えて置くことだと思います。

あとはそれを成し遂げる社会が、しっかりと機能するかどうかであり、宗教が関われるのは、その社会や人々の思想的なバックボーンとしてでしかありません。

祈って災害を減らせる訳ではありませんし、ましてや仏教の経典の法華経を崇め奉っても避けられる事でもありません。

この話はまた別場でやる事として、今日のお題です。

僕が活動を止めてから十年以上経過しましたが、その間、多くの活動家や元活動家に聞かれた事は「勤行はしてますか?」と云う事です。

勤行とは朝な夕なに御本尊の前に端座して、法華経の方便品前半と、如来寿量品を読み、御題目を唱える謂わば儀式ですね。

草々期の人に聞くと、昭和初期の頃には朝の勤行は五座あって、諸天供養、本尊供養、三師供養、広宣流布祈願、回向等でそれぞれ経を読み、御題目を百遍唱えていたので一時間コース。夜は三座で三十分コースだったと言います。

その後、創価学会ではこの形式を簡略化してきました。
僕が活動家の頃の五座・三座の勤行とは、それを簡略化したものですが、今では「SGI勤行」とか呼んで、方便品・自我偈・題目で五分コースにまでなりました。

創価学会や法華講では、この勤行をやってると言うと、多くの人達は「ああ、この人は信心はしっかりやっているんだ」という見方をし、やってないと「信心位はしっかりやった方が云々」となるわけです。

ただこの勤行、本来は出家僧の修行の形を取り入れたもので、在家信徒が同じことをやっていたのかは不明です。

僧侶方は朝な夕なに、それぞれ場所を移動して、それぞれの場所で読経・唱題をやっていて、その形式が勤行と言われる様になったんですよね。

日蓮が語っていたのは、方便品と寿量品の読誦、そして唱題ですが、ここに神力品を読む人も居れば、身延では陀羅尼品を読むという形もあったりします。
要は自身の信じている教えの形に様々な意義を設けて、読経の内容は決まっている様です。

だから勤行と言っても個人に訳すれば、それぞれの生活スタイルに合わせた形があれば充分なのではありませんか?

創価学会では大石寺の形式を元に、結果として今の簡略化した形式にしたんですが、僕から思うのは、なんとも軽い内容にしましたよね。

開目抄や観心本尊抄を読んで感じた事ですが、この勤行で一番大事な事は何かという事ですね。

創価学会ではよく仏壇の前に御祈念板なんかを置いて、やれ選挙の大勝利だとか、折伏目標達成とか、新聞啓蒙数の達成なんかを祈ってますよね。

それこそ「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」という言葉とおり、まるで加持祈祷さながら眉間に皺寄せて祈る人が多くいます。

こんな祈りをすると、声なんかも呪詛の様な声になる人もいたりして。

この文字曼荼羅は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」で明かされ、「観心」という事の文字曼荼羅であれば、この様な加持祈祷の様な祈りではないでしょう。

勤行で一番大事なこと。
そもそも仏教の三学(戒・定・慧)のうち、定学にあたる本尊であれば、勤行をするにあたり、心はしっかりと落ち着けて行う必要があるでしょう。

その上で何を祈るのか。そこは一人ひとりが考えるべきです。

僕の場合は、朝に勤行する場合は、その日に取り組むことがつつがなく行えるように、また家族が無事安穏であるようにと祈ります。
また夜は一日を振り返り御題目を唱えたり、自分の悩みや苦悩について思い返しながら祈ったりもします。そんな中で、御題目を唱えて、心が落ち着いてきたら終了してます。

出家僧ならば儀式や儀典を継承するという意義から、勤行の形式にも拘りが必要なのかもしれませんが、在家信徒であれば、大事な事は日々の生活であり、家庭や社会の中の事なので、あまり形式に拘る必要は無いと思いますよ。

だから日々の勤行等の実践で、やったかやらないか、出来たか出来なかったかに拘る必要も無いと思ってます。

現に日々、厳格なまでに勤行唱題の形に拘っていながら、人格的にも障害をもった人も沢山いますし、社会生活の適合性に欠ける人だっていますよね。

「実践行動」の有無に価値があるのではなく、その実践行動の意義の理解があって、そこの上で自分らしくどの様に生活の中で取り組み、人生に活かしていけるのか、そこを問わねばなりません。

勤行なんて、そんなに拘る事でもないでしょう。
それが今の僕の考えですね。

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