こんにちは(  ̄ー ̄)ノ
この間、新しい年になったと思っていたら、もう二月も終わりですよ。
早いですね。
毎年同じことを書いてますが、実感として本当に月日が経つのが早くなってます。
先日、俳優の大杉漣さんが亡くなりました。また左とん平さんも亡くなりましたね。
地元でも依る高齢化の為か、亡くなる人が目立ちます。組織が高齢化しているので、さもありなんと思いますが、ちょくちょく耳にします。
また親戚筋でも亡くなる人が出てきていて、「あれ?元気ではなかったっけ?」という人が亡くなることもあります。
二十代から四十代にかけては、これほど居なかった様に思うのですが、やはり五十代になると、本当に増えてくるものなんですね。
親の死に立ち会い、身内や知人の死に立ち会うことで、人というのは死というものに、ある意味で慣らされていくのでしょうか?
若いとき、それこそ二十歳代には、死とは遠くにあることで、なにか怖く、謎な存在でしたが、この年齢になると、見知った顔の人が亡くなる事を聞いていて、昔ほど恐怖は感じなくなりました。
ただ自分の身に降り掛かって来たときに、僕自身はどの様にその事と対峙するのか、それは分かりませんよね。
恐らくそれまでどの様に生きてきたのか、その生き方に依って、態度も決まってくるのでしょう。
先日、母親の古くからの知人で、僕も何かとお世話になった人が亡くなりました。
病で昨年末に入院、そして手術したのですが、今月なか頃に夜中に救急車で運ばれて、入院三日目でポックリ逝ってしまいました。
「世知辛い世の中で、子供を必死に育てて成人にさせ、孫まで見れたから良かったのかな、ご苦労様でした」
これは僕が思ったことです。
そういえば人間革命の中で、戸田会長が「死んだ我が子との再会」について、質問された時に、「再会できるとも言えるし、再会出来ないとも言える」という回答をしていたと記憶しています。
人が死ぬとどうなるのか。
これは古今東西の宗教における大命題です。しかし人の死というのは、そのまま即ち生、生きること、またこの世界に誕生することにも直結しますので、そう易々と言葉には出来ない事ですよね。
ただ僕はここまで色々と考えてきた中で、「死んだら全て終わりだよ」とは考えていません。では仏教一般で言われている様な、死んだら罪業重い人は地獄に行き、軽い人は直ぐに生まれて来るのか、といえば、それも少し違うように思います。
この事をあまり細かく書いていくと、「お前は丹波哲郎か!」と言われそうな気もしますので、あまり詳細は書くことを控えます。
ただひとつ言えることは、「宿命転換」も無いだろうし「三世永遠の幸福境涯の確立」なんて事はないでしょう。
今日の記事は特に主題なんてないので、ここで終わりますが、ただ最近、人の訃報を聞くたびに、寂しい気持ちと「ご苦労様でした」という気持ちが出てきて、複雑な感じがしますね。