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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180716】法華経と日蓮⑯

こんにちは(´・ω・`)

さて文字曼荼羅の事について、続けていきます。
創価学会や宗門では、日蓮の文字曼荼羅を「御本尊様」と呼んでいます。そこにある感情はと言えば、日蓮の文字曼荼羅に擬人化した感覚を持っているという事でしょう。

一般的な仏教の本尊と言えば仏像です。
仏像であれば、そこには本尊を擬人化して捉えるという事もありますが、日蓮の文字曼荼羅は仏像ではありません。だからそこに擬人化した感情を持つというのもどうなのでしょうね。



そもそもこの文字曼荼羅に書き顕されている内容は何なのでしょう。

「是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

ここで日蓮はこの本尊は「但八品に限る」とある様に、法華経本門の八品のみに顕されているといいます。この八品とは従地涌出品第十五から嘱累品第二十二の間のことで、これは地涌菩薩が出現してから、その地涌菩薩に対して「今以て汝等に付嘱す。汝等応当に一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし。」と述べ釈尊滅後の妙法流布を付嘱し、虚空会が散開するまでの箇所を指しています。

従来の小乗教における本尊とは、釈尊を中心にして迦葉尊者と阿難尊者を脇士としていたと言います。また涅槃経や法華経迹門までの本尊は、釈尊中心に普賢菩薩と文殊菩薩を脇士としています。そして両方共に釈尊は始成正覚(菩提樹の下に座して悟りを得た釈尊)を中心としている本尊でした。
しかしこの本尊では久遠実成の釈尊と共に宝塔であるお題目、そして釈尊だけではなく多宝如来が本尊として二仏並座している姿を持っています。またそればかりではありません、その釈迦と多宝二仏とお題目だけではなく、虚空会の儀式の様まで記され、二仏と宝塔であるお題目に対面した地涌菩薩やその他の諸菩薩や諸尊、そして諸天善神や正法正師である天台大師や伝教大師、そして日本の神々の代表である八幡大菩薩や天照大神までがその二仏並座した宝塔に対面している姿で顕されているのです。

従来の本尊とは仏と脇士に対面する形式であるものでしたが、日蓮の顕した本尊とは、久遠実成の釈尊と多宝如来が宝塔である御題目に並び座り、それに対面した地涌菩薩を始めとした諸大菩薩や諸尊が対面する姿で顕されるだけではなく、この本尊に向かう人もそこに連なる姿となることから「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」と述べ、「此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり、仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。」(日女御前御返事)とも言われているのでしょう。

この様な様式の本尊は、大乗仏教史上に類を見ない形式なのです。

また本尊の開眼について。
宗門では文字曼荼羅の開眼については「法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、」(木絵二像開眼之事)を挙げて、ここの「法華を心得たる人=御法主上人猊下」と解釈し、創価学会の授与する文字曼荼羅を「偽本尊」と述べていますが、なぜ「法華を心得たる人」が日蓮正宗の貫首に限定されるのか、意味が分かりません。

観心本尊抄には「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何」とありますが、これはつまり一念三千の義理の上でなくては、本来、草木をはじめとする非情に仏性があるという意義は成り立たないことを言いっていて、ここでいう「法華を心得たる人=一念三千を心得たる人」ということを指すのです。

日本の古来の仏像の開眼という観点で言えば、その仏像に目を点じ「眼を開かせる=開眼」ということを想定されているように考えられていますが、日蓮の文字曼荼羅で言えば、この文字曼荼羅を本尊とする人が「法華を心得たる人=一念三千を心得ている人」でない限り、本尊の意義を持つことはないという事を、先の木絵二像開眼供養では述べているのであってけして一宗一派に独占された摩訶不思議な力による開眼を述べているわけでは無いのです。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事)

この日蓮の言葉が指し示しているのはそういう事ではないでしょうか。

考えてみれば昭和初期に創価教育学会が日蓮正宗に関与して御本尊流布を始め、創価学会が大々的に戦後七十年の間、その文字曼荼羅を流布した結果として、いまの日本の状況を作り出したというのは根本的に、この文字曼荼羅への認識間違いが原因の一つになったのではないでしょうか。

またそれは日蓮正宗も同じことであり、その文字曼荼羅の本尊義について、今一度、再考する必要のある時代に来ていると思うのです。

まあここまで書いた内容は、僕自身が今年に入り開目抄や一念三千理事、また観心本尊抄に向き合う中で理解した内容であり、それを単純に信じろとは言いません。しかし単なる宗教組織の上層部の語る内容を鵜呑みにしてオウム返しで語る時代はそろそろ終わりにすべきではないでしょうか。

僕はそのように考えているのです。
それなくして日蓮の本意や志ということを理解することは出来ないでしょう。



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