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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180714】法華経と日蓮⑮

こんにちは( *・ω・)ノ

今日から三連休。取り合えず何をしようかと思案六歩しています。

でもあれですね、僕が子供の頃は、三十度の気温の日は「猛暑日」と呼んでましたが、今では三十五度とかなんですよね。
何故これほど気温が上がったかと言えば、一つには森が少なくなった事が関係してませんか?

散歩なんかをしていて、森の脇を通るだけでヒンヤリとした空気が流れてきますが、僕の地元でも森は潰され、どんどん新築の家が建てられています。

この景気でよくもまあ、これだけ戸建ての家が立つもんだと不思議に思いながらも、森が減少している事も、気温の上昇に繋がっているのではないかと思うんですけどね。

さて本題です。今回も前回に引き続きの内容です。

原田会長は先の会則改正についての談話で「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく「本門の本尊」であります。」と文字曼荼羅を「根本の法である南無妙法蓮華経を具現したもの」と述べていましたが、これって詳細を語れる人はどれだけいますか?



根本の法とは何か?
南無妙法蓮華経を具現化とはどういう事か?

日蓮の文字曼荼羅を御本尊と呼称して、創価学会や日蓮正宗の信徒達は、それぞれの想いの中で大事にしています。この事自体は何も変な事ではなく、ある意味で宗教としては当たり前の話です。

しかしその本尊とは、そもそも何を現しているのか、そしてそこにはどの様な意義を持っているのか。

そういう事、語れる人はどれだけいますかね?

この文字曼荼羅について、まずは宗門側の主張。

文字曼荼羅の書写の権能は、血脈相承を受けている御法主猊下が持つものであり、他の人が書写する事は謗法行為に当たると言っています。

これには文字曼荼羅の開眼という行為があり、そこには日蓮大聖人からの「別しての血脈が必要」という事なんですね。簡単に言えば。
しかし第一次宗門問題の時、宗門側がいう「御本尊模刻事件」について、時の宗門総監の藤本日潤師は、この「模刻」の何が問題なのかという裁判官の質問にたいして「手続き上の問題」と述べるに留まり、法義的な問題には触れませんでしたよね。

過去の日蓮正宗(富士門流)に於いても、例えば日興師から、未だ相承を受けていない年代と言われる時に、日目師が書写した文字曼荼羅も現存してますし、しかもその相貌は「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と記載され、十界全てが書かれていないものでした。

こういう歴史的な背景から考えても、今の宗門の主張は、辻褄が合わない事だらけなのですが、そこを指摘した処で意味が無いのでここでやめておきます。

なぜ止めるのか?
単純な話です。大石寺の法華講の人達は、基本、そんな事は関係ないのです。要は歴史的な史実がどうあれ、彼らの信じているのは日蓮大聖人から、富士の清流七百有余年という、宗教物語であり伝説なのです。

信じきっているものを、そう易々と否定も出来ないし、当然、客観視しろというのは無理な話でしかありません。

日蓮が法義対決したのは、僧侶に対して。
つまり仏教のプロ同士であれば、それこそ命をかけて対決というのもあるかと思いますが、法華講は門信徒の集まりであり、仏教のプロではないのですから、同じように対決する意味が無いと僕は思うのです。

こういう事で、徹底して責められるべきは、職業としている僧侶であり、一部の法華講幹部指導者達であるべきでしょう。

次に創価学会の主張。
創価学会では2014年の会則改正により、本尊観は以下の様に変更しました。

「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく「本門の本尊」であります。」

ここで日蓮が図顕した文字曼荼羅は、全てが根本法である南無妙法蓮華経を具現したものと言ってますが、これは抽象論的な内容ですね。

南無妙法蓮華経が果たして全ての根本法なのか。そもそも文字曼荼羅場、それを具現したものなのか。実に曖昧です。
試しに創価学会の幹部に聞いてみたら解ると思いますが、この解釈は人によりまちまちで、言っている事が極めて曖昧であることが分かるでしょう。

「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」

そもそも日蓮が書写した本尊が、なぜ「謗法の地にあるから受持の対象とはしないのか、その論理も解りません。日蓮直筆の本尊は現存するだけで120体ほどありますが、創価学会のいう謗法の地は大石寺だけなんですか?

よく思索してみると、不思議な理屈ばかりが横行していますよね、創価学会に於いてもですが。

これからは僕の私見として話をしますが、日蓮正宗にしても、創価学会にしても、その信徒達は、体よくそれぞれの宗教団体の指導者に利用されていますよね。なぜ体よくというかと言えば、彼ら自身、自ら進んで組織に隷属し、言うがままに従う事に喜びすら覚えています。

彼らが信じてやまない経典の「妙法蓮華経」の譬喩品第三には、有名な「三車火宅の喩え」があります。
そこで描かれる火宅とは、物凄いエグい家で虫が沸き、火がついて燃え盛り、そのままいたら確実に焼き殺されてしまうという場所なのですが、そこにいる子供達はその火宅を遊園地と思い込んで、外からの呼び掛けにも出ようとしない。

外に出た僕から見たら、今の創価学会の活動家達や、法華講の人達は、この火宅の中で遊ぶ子供達とオーバーラップしています。

そして何故、この様な状況を甘んじているのか、その大きな原因は、この「御本尊=文字曼荼羅」の意義を、しっかりとそれぞれの宗教団体の指導者に握られているからに他なりません。

違いますか?

まだまだ続けますが、良く良く落ち着いて考えてみたらいかがですか?

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