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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180613】アミニズムと一念三千②

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日の記事では、すべてのものに「霊性が宿る」というアミニズムと、一念三千の思想の類似性について、少しだけ書かせて貰いました。
でもこの論理、長年に渡り創価学会の水に慣れ親しんだ経験を持つ僕の中には、結構な拒絶感が正直あります。

先の様な事を書くと、恐らく多くの創価学会の活動家や法華講などは「本尊に迷う姿だ」とか言われそうですね。

ただこの本尊に迷うというのも、実は難物で、本当にアミニズム等を考える事がそれに該当するのか、本尊に迷うと言うのか、少し考えなくてはいけないでしょう。

「而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」
(開目抄下)


これは有名な御文で、ここでは天台宗以外の諸宗が本尊に迷っている事を述べています。
日蓮が御書の中で、本尊に迷うという事を明確に述べているのは、この開目抄にしかありません。

「いやいや運ちゃん、運ちゃんの様にアミニズムとか言って、何でも尊重するというなら、本尊は何でも良いことになるじゃん。それは本尊雑乱に繋がるし、やはり本尊を迷うことは大謗法なんだ」

そんな事を言われそうですね。

しかし多くの諸尊や様々な存在を「尊重=大事に考える」というのは、そんなにおかしい事でしょうか。

僕は尊重するとは言っても、それを「根本尊形=本尊」とは一度も語ってません。

先の開目抄で、なぜ日蓮は天台宗以外は全て本尊に迷うと言っているかと言えば、仏教を信奉しながら、久遠実成の釈尊を無視して、廬遮那仏を本尊としたり、阿弥陀仏を本尊にしたり、薬師如来を本尊にしたりしているから、本尊に迷うと言っているんですよね。

まあ天台宗でも薬師如来を本尊にしてたりしますけどね。

要は本来、自分達の宗旨で根本的に尊敬する対象を理解していない事、これを「本尊に迷う」と言うわけであって、ここは僕自身は外していません。

本尊とは南無妙法蓮華経であり、それが指向している事を根本尊形と理解し、常にそれは忘れない。

そうであれば良いのではありませんか?

そもそもですが、日蓮は自身の本尊観は唱法華題目抄で述べられている事が原点だと、僕は考えています。

(本文)
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」
(現代語訳)
「質問だが法華経を信じる人は本尊並びに修行の義並びに行動はどの様にあるべきなのか。答えよう、第一に本尊は法華経八巻一巻一品或いは題目を書いて本尊と定めるべきであると法師品並びに神力品に書かれている。また可能であれば釈迦仏や多宝仏を書いても造仏しても法華経の左右に立て奉るべきである。また可能であれば十方の諸仏や普賢菩薩等も造仏するか書き奉るべきである」

ここで中心には法華経を置いて、可能であれば釈迦・多宝仏や十方の諸仏、菩薩等を造仏するか書き奉る事が述べられています。

また建治二年に門下の四条金吾に当てられた「四条金吾釈迦仏供養事」には以下の御文があります。

「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云、開眼の事普賢経に云く」
「されば画像木像の仏の開眼供養は法華経天台宗にかぎるべし」

日蓮が観心本尊抄を認めたのは文永十年であり、その三年後に四条金吾が釈迦仏像を一体造仏し、日蓮に開眼供養の相談をした際の返事がこの御書です。日蓮は観心本尊を顕した後であっても、四条金吾から仏像を造立した事の報告を受けて、その開眼供養について語っているのです。

そもそも本尊(文字曼荼羅)とはどの様な意義があったのか。
これは釈迦仏供養事を送られた翌年、門下の日女御前御返事に以下の様に語っています。

(本文)
「されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ普賢文殊等舎利弗目連等坐を屈し日天月天第六天の魔王竜王阿修羅其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り悪逆の達多愚癡の竜女一座をはり三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩天神七代地神五代の神神総じて大小の神祇等体の神つらなる其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」
(現代語訳)
「されば主題の御題目は中央にかかり、四大天王は宝塔の東西南北の四方に座り、釈迦仏・多宝仏、また本化地涌菩薩が二仏と肩を並べ、普賢菩薩や文殊菩薩等、舎利弗や目連等が坐している。大日天王や大月天王、第六天魔王や龍王、阿修羅がいて、愛染明王や不動明王は南北の二方に陣取っている。悪逆の提婆達多や竜女は並び座り、三千世界の人の需要を奪う悪鬼である鬼子母神や十羅刹などこれに加わり、日本国の守護神たる天照大神や八幡大菩薩、天神七代、地神五大の神々、総じて大小の神祇等が連なっている。宝塔品には「諸々の大衆を接して、皆虚空にあり」とある。これ等の仏菩薩や大聖等総じて法華経序品に列座した二界八番の様々な人々は一人ももれず、この御本尊の中に住まわれていて、妙法五字の光明に照らされ本来あるべき尊形となる。これを本尊というのである」

これは日蓮の文字曼荼羅の意義を語っている所ですね。
つまり様々な存在は「妙法五字の光明」に照らされる事で、本来の尊形を顕すのであるという意義がある訳ですね。

今流で言えば、お題目を中心としてそれぞれの存在を尊ぶ事で、本来の尊形(意義)の働きを顕すという事でしょう。

つまるところ、何も否定をせず、日蓮はお題目を中心とする事で、それらが働きを存分に発揮できるという事を述べているのではないでしょうか。

だからと言って、僕はここで「鬼子母神も大黒天も、有り難いものは全て祀れ」という事を言いたいのではありません。ただそういった存在もしっかり尊重すべきなのでは無いかという事です。

アメニズムとは、周囲にあるものすべてに「霊性」を認める思想です。
自分の生きる周囲の環境全てを尊重し、お題目を中心に周囲への尊重の心を以て生活する。
そういう事を持つべきではないのかな、そんな事を考えています。

思うに日蓮正宗を初め創価学会、またそれに類する宗教では「謗法払い」として、それらを安易に破却して良しとしていますが、実はそういう行動が、実は自分自身の周囲の存在に対して「尊重する」という心をも破却させているという事はないでしょうか?

粗い言葉を多用する、こういった人達の言動を見る時に、この事をふと考えたりしてしまいます。

日本はアメニズム文化の中の民族がすむ国ともいえます。
もう少しこういった事を、大事に考えても良いのかもしれませんね。

本日はここまでとします。


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