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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180521】キサーゴータミーの逸話

こんにちは。(  ̄ー ̄)ノ

今年の二月から取り組んでいた開目抄について、昨日ようやく一区切りが付きました。

とは言っても原稿用紙百枚程度はある御書で、そう易々と「はい解った!」となる内容ではありません。
これからも折りを見ては、修正や追記が必用な感じです。

ただ自分自身で読み、思索して解ったことは、この開目抄とは人本尊開顕の書ではないと云うことですね。

大石寺の教学の流れから言えば、「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の柱とならん」という言葉は主師親の三徳を述べたもので、ここで日蓮は自身が人本尊であることを述べたと解釈してますが、そんな内容ではありませんね、全体の流れは。

要は組織から教えられた事を、そのまま鵜呑みにしてはいけないと云うことですね。
御書は元々手紙なんですから、それを一人ひとりが読んで、どの様に解釈するのか、そこが求められると、改めて思いました。

さて今回の記事は仏教説話の「仏弟子、キサーゴータミー」について取り上げたいと思います。

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インドのサーヴァッティーの町に、キサーゴータミーという若い女性がいました。貧しい家の娘で、げっそりとしていましたので、“やせっぽちの(キサー)ゴータミー”と呼ばれていました。

困窮した少女時代を送った彼女でしたが、財産を失った大金持ちを助けたことで、その長者の息子と結婚して40億もの財産を譲り受けることができました。それから彼女は子供を身ごもり、無事にかわいい男の子を産みました。

ところが、その幸せのさなかのことです。よちよち歩きができるようになったばかりの最愛の子が、不幸にも亡くなってしまいました。一人息子を失い、キサーゴータミーは悲しみに打ちひしがれます。

それまでに人の死を見たことがなかった彼女は、皆が火葬に連れ出そうとするのを拒み、子供の亡骸を抱えて、「薬を探しに行きます」と言って家を飛び出していきました。

「誰か、この子の薬を知っている人はいませんか!」

家々を尋ね歩く彼女に、何人かの人はこう言いました。「お母さん、あなたは正気を失っておられる。死んだ子供の薬を求めて歩き回っているのだから」。しかし彼女は答えました。「いいえ、私は必ずこの子の薬を知っている人を見つけ出します」

この様子を見たある賢者は、彼女を憐れに思って話しかけました。

「お母さん、私は薬のことは知りません。でも薬を知っている人なら知っています」

「どなたがご存知なのですか?」

「師が知っておられます」

「行きます。お尋ねしてみます」

こうして彼女は、紹介されたブッダのもとを訪ねました。師に近づいて礼拝すると、彼女は尋ねました。

「尊い方、あなたは私の息子の薬をご存知だとうかがいました」

「そうです。知っています」

「何を手に入れたらよろしいのですか?」

「ひとつかみの白いカラシ種(白マスタードシード)をもらってきなさい」

「どこのお家からいただいてきたらよろしいですか?」

「息子も娘も、誰も亡くなったことのないお家からいただいてきなさい」

「わかりました、師よ!」

キサーゴータミーは子の亡骸を抱きかかえると、再び町に戻っていきました。最初の家の前に立って、彼女はさっそく尋ねます。

「お宅に白いカラシ種はありますか? 息子の薬になるそうです」

「ありますよ。ちょっとお待ちなさい」

カラシ種を持って出てきた家の人に、キサーゴータミーは尋ねました。

「お宅では息子さんも娘さんも、どなたも亡くなった方はおられませんか?」

「何をおっしゃいます。うちでは今生きている人よりも、死んだ人間のほうがずっと多いですよ」

「それなら、これはお受け取りください。この子の薬にはなりませんから」

そのあとも、彼女は家から家へと尋ね歩きました。しかし、どこでもカラシ種を手に入れることはできませんでした。カラシ種(マスタードシード)はどこの家庭にでもある、ごくありふれたものでした。現代でもインド料理には必ず使うものです。日本でいうと塩や胡椒のようなものでしょうか。そのようにカラシ種はどこの家庭にもあったのですが、死人を出したことのない家は一件もなかったのです。

町中の家々を尋ね歩いたキサーゴータミーは、夕刻になって冷静になり、そして気づきました。

「ああ、なんと恐ろしいこと。私は今まで自分の子供だけが死んだのだと思っていた。でもどうでしょう。町中を歩いてみると、死んだ人のほうが生きている人よりずっと多い」

正気を取り戻した彼女は、息子の亡骸を置いて、ブッダのもとに戻りました。「カラシ種は手に入りましたか?」と問う師に、彼女は自分の気づいたことをお伝えしました。

ブッダは彼女にこう教えました。「誰にでも死は必ずやってきます。永遠でないものに望みをかけるならば、死(終わり)というものが大洪水のようにその人を飲み込んで、苦しみの海のなかに投げ込んでしまいます」。その時にブッダが説かれたことが、今も詩の形式で残されています。
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この説話はとても有名なもので、今まで読んだ人もたくさんいると思います。

なぜ今回、これを取り上げたかですが、それは仏教は何を目指しているのか、そしてそれは如何なるモノかを一番端的に表している説話だと思ったからです。

創価学会では仏法を「宇宙の根本法則」といい、例えば朝の勤行は宇宙のリズムに心のギアを合わせる事だと教えます。
そして南無妙法蓮華経というお題目は、宇宙のリズムだなんて良く言いますよね。

でも果たしてそんなモノなのでしょうか。
自分達が学ぶ仏教というのは。

このキサー・ゴータミーの説話では、最愛の人の死とそれに向き合う事、そしてそれは仏教の求めることであるという事が、端的に表されてます。

人生には様々な苦悩がありますが、この説話で取り上げているのは、その苦悩の一番の根源にある「死」です。
そしてそれに苦悩し翻弄される母親の姿は、日常に生きる私たちの姿そのものです。

そこに対して釈迦は、恭しく荘厳な教えを説いていません。あくまでもその苦悩の本質に気付くためのアドバイスを行っています。

そして母親たるゴータミーは、自分自身でそのアドバイスを元に行動し、そこで苦悩の本質を理解し、その結果、悲しみを乗り越える事が出来ました。

大事な事は、苦悩の答えは自分の心の中にあり、それを理解する事なのだと云うことですね。

創価学会では宇宙の根本法則なんて仏法を呼んでますが、仏教が常に対象にしているのは、人の心です。けして何か尊極な恭しいものではありません。

一切経典は八万四千の法蔵と呼ばれてますが、その経典が対象としているのは「人の心」であり、宇宙というものでは無いのです。

「いやいや、運ちゃん。自分も宇宙の一部であり、自分の心の事は宇宙の事にも通じるだろう」

こういう人がいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。
導入部でそんな理解をするから仏教というものが、解らなくなってしまうのです。

仏教を理解して、それを横展開し俯瞰して見るなかで、そんな事も出てくるかもしれませんが、それは別の話です。

そういう誤解が創価学会の中にあることから、実は日蓮の言葉も理解出来なかったり、誤解してしまったりが起きるわけです。

要は目線が違うという事ですね。

創価学会がおかしくなった今、ネット上では御大の綺麗事の箴言を持ち出して、やれあーだコーダ議論してますが、そもそも日蓮や釈迦の教えについて、素直に読み直して見る必要があるのでは?

その為にも、仏教とは元々何を見て、何を目的としているのか、そこを理解して欲しいものですね。


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