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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180507】教学と信仰について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

いやー、連休も終わってしまいました。
今回は九連休でしたが、仕事からこれだけの期間離れていると、今日から何をしたら良いのか、ちょっとわからなくなってました。

だから昨日の夜、少し落ち着きながら、明日は何をすべきかを考えたのですが、やはり基本はリハビリからかという結論になりました。

でも明日は他部門を交えての会議を入れていたので、その資料は作らねばなりません。

さて本題です。
婦人部には連休というのは、あまり関係ないのでしょう。僕の地元でも高齢の婦人部幹部が近所のご老人を折伏するというので、嫁も昨日の昼から夜まで出ずっぱりでした。

僕の嫁もそうですが、今の創価学会で人を折伏すると言うても、一体何をもって折伏するのでしょうか?

「折伏」とは正しい教えを元に、間違えた教えを指摘して、人を導く化導法であり、化他行と言われています。

創価学会は2014年に「弘安二年の大本尊は謗法の地にあるから授持の対象とはしない」と宣言、日蓮直筆の本尊は全て「事の本尊である」と言いました。

日寛師の六巻抄によれば、大石寺の本尊は根源であり、各寺院や家庭にある本尊は「義理の本尊」であり、これらは枝葉であるとして、その根源はあくまでも弘安二年の大本尊だと言いました。

創価学会はそれらを否定した訳で、つまり日寛師の教学から離れる事を宣言したに等しい事なのですが、それから四年近く経過した今現在、大本尊を恋慕し信じる会員も多く、また日蓮を末法の本仏と崇め、出世の本懐は大本尊の建立だったと信じている会員も多くいます。

折伏とは教義があってこそ、行える事なのですが、教義がグズグズなのに折伏という事を平気で行い、それを称賛すべき行為と考えている今の創価学会が僕には理解できません。

その昔、先輩から言われたのは「教学とは信心の背骨である」という事です。確かに教学を学び、それを論じるだけでは、何ら信仰とも言えません。実際にその教学を現実の生活のなかで展開し、自身のいきる基盤としなければ、その教学とは学問だけに過ぎないでしょう。

しかし教学となる教えが無いとした場合、そもそも何を信じた信仰であり、宗教なのか、よく解りません。

今の創価学会でも「日蓮大聖人」とか「仏法」なんて呼びますが、そこに筋はありません。
末端組織では未だ、大石寺の日寛師の教学を筋だと信じている人が多くいますが、信濃町界隈では大本尊に纏わる日寛師の教学を否定、恐らくこの先には日蓮は上行菩薩の再誕という位置付けにして、久遠実成の釈尊を本仏とする事でしょう。

またその法華経を信仰する組織を創価学会仏と規定していくに違いありません。

今の段階はその過程だとでも言うのでしょうか?

教学をどの様に捉えるのか。
哲学的な論理で捉えることを教相釈といい、それを信仰の意味で捉えるのを観心釈と言いますが、そもそも教義がグズグズでは、一体ぜんたい何を信仰している組織なんですかね?

恐らく「池田哲学」と言いたいのでしょうか、その池田哲学ですら、「人間主義の思想」「平和思想」と言いながら、実態すら解りません。

実態が解らないから解釈もまちまちで、いう言葉が人に拠り変わってきます。
この「人に拠り変わる」というのが、ネット上には顕著に現れてますよね。

まず創価学会の活動家幹部は、この現実をしっかり見つめ、今は立ち止まるべきだと思うのですが、どうお考えなのでしょうか?

立ち止まり、考えて、信じるものを再確認して、今後の行動を決める。

それが今、一番必要だとは思いませんか?

まあそれを信濃町界隈は一番恐れている事なんでしょうけどね。

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