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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180424】人の心の難しさ

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

開目抄のまとめは中々進まず、日々仕事を一生懸命してまして、改めて時間貧乏なんだなと思ってます。
読みたい本、見たい動画、様々あるのですが、全てを同時平行で進めるのは困難ですよね。
しかも平日は仕事を終えてからでないと出来ないですから、悩ましい限りです。

さて今回は、人の心の難しさを少し書いてみます。

この人の心について、仏教では観点の一つとして「九識論」というのがあり、これは天台大師が提唱したものです。

おさらいではありませんが、概略だけ書いてみると、以下の様な内容です。

◆五識
眼識、画像や映像として見る識。
耳識、音を聴く識。
鼻識、臭いなどを嗅ぐ識。
舌識、味などを感じる識。
身識、肌で触れ、触り感じる識。
これらは感覚器官に関係する心の働きを言います。それぞれの感覚器官は単に情報を取り込む器官ですが、取り込んだ情報を取捨選択して必要な事を取り扱う働きと言う事から「識」と呼ばれています。

町中を歩いている時にも、五識から膨大な情報は常に取り込まれてますが、自分のいま行っている行動に必要な情報のみ認識する心の働きが働いているからこそ、私たちは混乱せずに行動できるわけです。

まあ人間と外界の繋ぎの部分で、入力される機能を司る心の働きと言っても良いでしょう。

◆意識(六識)
この「意識」というのも、元々は仏教用語から来ているもので、これは五識から入ってきた情報を元に、それらを統合して認識する心の働きですね。

「いま満員電車の中にいる」「背中に後ろの人の持つスマホが当たって痛い」など、自分自身が様々な状況にあることを、認識します。そして必要な次の行動を考えたりするのも、この意識と言っても良いでしょう。

普段、私たちが認識している「心」というのはこの部分にあたります。

◆末那識(七識)
これは「自我の本体」とも言われ、所謂「エゴ」という心の働きの源泉です。
よくいう「深層心理」というのは、この部分の事を言いますが、これは意識の大元にあるので、私たちは日常、この心の働きは認識出来ません。
五識から入った情報により、自分自身のいまの状況を認識、そこで様々な事を考え、次の行動に移しますが、そこに至るまでの大元の心の働き、「自分はどの様にあり、次にどんな行動を取るべきか」を意識の奥底から突き動かす心だと言えば、少しは理解しやすいのかもしれません。

◆阿羅耶識(八識)
これは蔵識とも呼ばれ、過去遠々からの一挙一動の事をすべて刻み込んでいる心の働きです。簡単に言えば「記憶」と言ってもいいかもしれません。

最近、欧米で言われ始めている「自己の保存」という事で、人の記憶をクラウド上に保存すれば、その人格を留めておく事ができるという考えも、この八識を意識しての理論で、これは極めておもしろい示唆だと思います。

人の行動の奥底には、記憶があり、その記憶そのものが実は人格の根元では無いかという理論が最近出てきていて、そこからこの話が出ているんですね。
「Ghost In The Shell 甲殻機動隊」というSFでもそんな理屈が語られてます。

人が何かを決めて行動する行動様式の根底には、過去からの経験、つまり記憶が影響を与えていますので、その人を人間足らしめる本体は「記憶」だというのです。

法相宗ではこの阿羅耶識を「心王」としたというのも、考えてみたら極めて現代の科学で考えられている思考に近しいのかもしれません。

またこの阿羅耶識という事を考えると、様々な事に広がっても行きます。

例えば生物共通の記憶とはどう連携するのか、では人類共通の記憶とはどう関係するのか。また民族の共通の記憶はどうなのか。

個体でそれぞれ阿羅耶識があるというなら、こういった生物(これには種等も含まれますが)や人類、民族といった横繋がりの記憶というのは、どの様なものなのか。

また輪廻転生で民族を飛び越え、種を分かつ転生の場合、それらの共通の記憶と個体の記憶はどの様に関係するのか、ここは考えなければなりませんね。

深層心理学の大家、カール・グスタフ・ユング氏は、こういった種や民族等の共通の記憶というのは、生物にある遺伝子によりもたらされると述べていました。

ではその遺伝子がもたらす記憶と個人の阿羅耶識にある記憶の関係とはどうなのか、そこは思索が必要です。

また阿羅耶識というのは、単なる記憶に留まらず、そこには「種子」としての「業(カルマ)」も漏らさず貯められており、それら業は、外界の「縁」に触れて発現し、結果と報いをもたらすとも言うのです。

◆阿摩羅識(心王真如の都)
天台大師は阿羅耶識の奥に、さらに心の本質があることを提唱しました。それが九識です。
また日蓮はこの九識について、「日女御前御返事」で以下の様に述べています。

「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」

日蓮の文字曼荼羅とは、一念三千の当体を認めたというものなので、すべての心の働きの本源の事を、阿摩羅識だというのでしょう。

カール・グスタフ・ユング氏は自己の中心を指して「セルフ(Self)」と言うものを提唱していましたが、それはこの阿摩羅識なのかもしれませんね。

以上が九識論なのですが、ここで大事なことは、各識の働きや存在の有無ではなく、人間の心とは幾重にも多重な構造を持ち、それぞれの階層で「識」として、心の働きを持っているという事だと思います。

よく「祈っても叶わない」とか「なぜ自分は不幸続きなのか」「なぜ人生とは不如意なものなのか」と嘆くことがありますよね。

一方、仏教では華厳経においても「心如工画師(心は工なる画家の様に、全ての世界を描き出している)」とか「一念三千・諸法実相」と、全ては一念、つまり瞬間の心の中から派生していると述べてます。

この自身の思いと現実の差は何かといえば、この心の多重性に依る事なのかもしれません。

人は日常、どう頑張って見ても、六識(意識)しか感じ得ません。だから意識を心の本体だと思い、そこで思い描いた事と違うことが起きることで、不満や不安、失望などを感受してしまいます。

しかしその意識を突き動かすのは、その奥にある「エゴ」であったり、「業」であったり、そもそも心の本質である九識であったりするわけで、そこを理解しないと自分自身の行動や思いというのも、実は本当の意味で理解できないのではありませんか?

天台大師の述べた「止観」も、日蓮のいう「直達正観」も、じつはこの多重構造の心を理解するという事を、目的のひとつとしているのではないかと、僕なんかは考えるわけです。

人の心は難しい。
ましてや自分自身の心の理解なんて、とても一筋縄では行きません。

この自分の心を見つめ、その動きや奥底の言葉に耳を傾ける。それも信仰の目的の一つではありませんかね?

よくよく考えてみたいものです。

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