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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180319】仏とか成仏を語る前に

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

先日の話題を続けます。
これは開目抄を読みながら、思索した断片なので、うまくまとまってませんが、そこはご容赦のほど。

でもまあ、こんな僕も青年部時代には分県教学部長だった訳ですよ。だから月一回、信濃町の世界青年会館で行われていた「首都圏教学部長会」にも参加してましたが、そこでは何も教わりませんでしたね。

ありきたりの「切り文講釈」だけを聞いて、理解した気持ちでいました。

そう考えると、創価学会という組織では、仏教の触りは教わりましたが、それ以外の事は、なーんにも無かったという事が理解できました。

さて仏という事、そして成仏という事について、思索を続けます。

法華経の説く成仏観というのは、現代に於いても中々受け入れられずらい事ですね。だから日蓮が生きた鎌倉時代なんて、受け入れられる処か、「お前はあほか!?」と罵られる事、これは無理がありません。

考えたら、僕もそうですが、日常様々な感情に惑わされ、日々の生活に追いまくられて、寝る前には疲弊して日々生きている人や、借金や病気に悩まされ、究極は犯罪者に至るまでもが「皆は仏なのです」と語った処で、一体どれだけの人が理解することが出来るでしょうか。

そもそも現代に於いて、仏教は形骸化し、宗教全般は胡散臭さがまして、「神や仏が居るものか!」という様な時代です。

そう易々と「そうか!解った!」なんて成るわけがありません。

創価学会では「功徳満開!」「祈りは必ず叶う」と言いますが、この仏とか成仏については、それこそ個々の会員の理解に委ねてますから、言うことは転々バラバラです。

まあそれはさて置き。
僕なりに仏とか成仏を考えてみたのですが、これを突き詰めていくと「自分と他人」という事について、どうしても考えなければならないと思うのです。

創価学会では「相対的な幸福」と言いますが、これは他人と比較して自分が優位な位置に居ることで、人は幸福を感じると言ってます。しかしよく考えてみたら、他者と比較して安心感を得ることがあるかも知れませんが、幸福をそこで感じる人というのは居ないと思います。

しかし人は他者と比較して、自分に不足しているモノ、これは経済的な事や身体的な事、また様々な事に差を感じることで、そこから不幸を感じることは多々あります。

そこで出てくるのは「こんな自分とは一体何者何だろう」という疑問なんですね。

そういう事からも「自分とは何か」「自分以外の他者とは何か」「自分と他人という関係性は何なのか」という事に対する思索がとても重要な事になってくると思います。

これはとても難しい問題ですね。

因みに法華経の如来寿量品には、以下の言葉があります。

「諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。
 或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。
 諸の言説するところは皆実にして虚しからず。」


仏は衆生に「仏」という存在を知らしめる為に、この様に言説してきたというのです。

自分とは如何なる存在なのか、それを理解するには自分と他者という存在についての思索は不可欠だと、僕は考えています。

この話題、まだまだ続けます。

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