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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180131】仏界は具備するのか涌現するのか

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

とうとう一月も最後の日となってしまいました。明日からは二月です。

世間では平昌オリンピックだ東京オリンピックだとはしゃぐ風潮を作ろうとしている様に見えますが、いつも思うことは東日本大震災で、間もなく七年になろうとしている事です。

二万人以上の死者があり、福島第一原発の道筋は未だに見えてません。

あの震災は一体何だったんでしょうね。
それ以前の日本は毎日がお祭り騒ぎの様な感じだったのですが、それに対する「天鼓」だと僕は思いました。

しかし今の日本を見ると、相変わらずのお祭り騒ぎ、一体何なんでしょうね。

こんな事では日本という国も、あまり先行きが無いのかもしれませんね。

さて本題です。
法華経は仏教で最高最第一の経典だと言われています。それは一念三千と久遠実成が明かされ、全ての人達に成仏というものを開いたからだと言われています。

しかしよく間違えているのは、方便品から始まる「二乗作仏」とは、あくまでも二乗が遠い未来世に於いて仏と成ることを約束したものであって、法華経の会座で成仏はしていません。

法華経の中で「即身成仏」が説かれるのは、提婆逹多品の龍女の成仏であり、それについても「変成男子(男子と変わり成って)」して成仏したというモノです。

そもそもこの提婆逹多品も、法華経全体の流れの中ではあまりに突然感満載の章で、初期の法華経からあったのか、疑問視されています。要は途中で組み込まれた物語では無いかという話ですね。

日蓮はこの仏界について、観心本尊抄で以下の様に述べています。

「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」

つまり十界のうち、九界に関してはどの様な心の情態として現れるのか、そこは説明出来る。しかし仏界だけは説明出来ないので、九界がある事から、仏界が有ることを疑うなと言う事なんですね。

またこの仏界については、開目抄にはこうあります。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」

久遠実成を明かした事で、それまで爾前経で説かれていた成仏観も壊され、十界の因果関係も打ち破られて、本門の十界の姿を顕したのである。これが本因妙・本果妙の法門である。九界は無始の仏界に備わり、仏界も無始の九界に備わって真の一念三千となる。

つまり久遠実成までは仏とは成るものであって、九界(日常に観じる心の世界)とは別のものであったのが、久遠実成が明かされる事で仏界とは九界を包含するものとなり、九界も仏界を包含するという姿という事になる。そしてこれが本当の一念三千なのであると言うのです。

これを要約して考えると、日常生活の中での心の働きこそが仏界の姿であり、その仏界は日常生活の中で心の働きを司ると言う事だと僕は理解しています。

この様に理解していくと、よく創価学会が指導している「仏界の生命を涌現させて」という事も何か違和感を感じますし、「仏の命が内在している」というのも少し違うように思えてならないのです。

またこの九界と仏界の関係性であればこそ、実は法華経迹門に於いて、二乗にたいして「成仏」という事ではなく、未来世に於いての記別(約束)に留めたのも意味があるのかもと思いました。

何故ならば既に仏という存在であったわけで、何かしら境目を設けて仏に成ったなんて事では無いからですね。

そこから考えると、提婆逹多品にある龍女の即身成仏も違うような感じもします。

この様につらつらと考えていくと、やはり創価学会で御大の言っていた「創価学会に付ききれば未来永劫崩れざる幸福境涯」なんて指導も、こりゃまた違うように思えます。

今回はここまでとして、今後もこの事は思索を続けたいと思いますので、引き続き宜しくお願いします。

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