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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180805】僕の日蓮観⑤

こんにちは(´・ω・`)

こう日々暑い日が続いていると、疲労ばかりが蓄積されてしまい、自宅に帰るとパソコンを開く元気すら無くしてしまいます。
前回のブログの記事が7月31日で今日は5日。
この期間、正直ブログの記事を更新する気力すら持てずに過ごしてきましたが、ここで少し記事を書き留めておきたいと思います。

さて、先日から法華講員の方からメールを頂いていた内容を元に、そこから僕自身の考えている事を記事として「僕の日蓮観」としてきました。

この法華講員の方から、一応メール全文の公開という事で同意を頂きましたので、そのメールを公開しつつ、記事を書き連ねていきたいと思います。

参考:法華講員からのメール

「しかしそこには当然伝わってきたものそのものを信受して仏道を習うというスタンスではないために勤行の仕方やお数珠について、また御本尊の奉り方など、他門を参考にするなどの方法はあったのかもしれませんがいずれにしても化儀の一切に関することというのは基本的にはおそらくゼロからのスタートであったと思います(あなたは現在いちおう学会員ですが)。」

さて、ここで日什師の事について少し調べてみました。



日什師が生まれたのは正和三年(1314年)、陸奥国会津黒川(今の福島県会津地方)に生まれたと言います。これは日蓮が亡くなった弘安五年(1282年)から三十二年後に当たります。
その後、日什師は正慶二年(1333年)に比叡山延暦寺に上り、天台宗の慈遍を師として出家したと言います。この時の名は「玄妙」と呼ばれたそうです。
そしてその後、文和元年(1352年)に天台宗延暦寺の学頭になったと言いますが、38歳で学頭職に就いたという事は、それなりに優秀な方であったのでしょう。

その後、康暦二年(1380年)に日蓮宗の弘法寺で帰伏しますが、その後、名を日什と改め前述の帰伏を破棄したと言います。何故、ここで日什師はこの様な行動を取ったのでしょうか。

ここで顕本法華宗の妙満寺の年表を参照してみると、以下の記述がありました。

「五十八歳の時、故郷会津に帰り、城主に請われて羽黒山東光寺に入られ、後進の指導にあたられました。こうして十年が過ぎ、上人六十六歳の時、一人の学僧が預けていった日蓮聖人の著「開目抄」「如説修行抄」という写本を読まれました。いまだかつて見聞されたことのない本であり、はたしていかなる内容かと一気に読み進むうちに、上人の目は輝き、心はおどりました。思えば仏道修行に入ってこの方、多年心の中にあった大きな疑問が、あとかたもなく消え去っていました。これこそ多年求めていた「正しい仏の教え」であると確信し、直ちに日蓮聖人を師と仰ぎ、名も「日什(にちじゅう)」と改められました。
 そして、日蓮聖人の著書が最も多くあるという千葉県真間の弘法寺を訪ねられ、更に、中山の法華経寺におもむき日蓮聖人の御真蹟を拝すること一年余り、上人の信念はいよいよ強まり、日蓮聖人への帰依の心は益々高まるのでありました。
 しかし、当時の日蓮門下(弟子・信者)の人々は、法華経の教えを弘めるという目的を忘れ、名誉や法脈に心うばわれ、弟子が、あるいは同信の者同志が争いあうという、誠に情けない有様でありました。そこで上人は、日蓮聖人の正しい教えを、その教えの源である法華経から受け継ぐという「経巻相承(きょうがんそうじょう)」を固く心に誓われ、帝都弘通を志して遙々時の都、京都へ上られました。時に上人六十八歳でありました。」

つまり日什師は日蓮の著述された御書を見て、恐らく痛く感じ入る事があったのでしょう。天台宗で学頭となり、その後、天台宗の僧として後進を指導する立場まであった人物が、改宗するという事は、それなりに覚悟が居る事であったと思われます。
しかし改宗し門弟の一人となった時に、その眼前に見えた姿が「名誉や法脈」に心を奪われ、同志が争い合う姿であったとしたら、一体、どの様な思いに駆られたのか。

「経巻相承」という事で如何にもその姿勢を軽んずるかの様な後世の言論には、この日什師の心の中をどれだけ推し量っての思いの言葉であるのか、僕はそこを考えざると得なくなります。

ちなみにこの時代の日興門流はどうであったかというと、新六の日代師や日助師が存命であったという時代ですが、そこに日什師が教えを尋ねたという事は無いようですね。

ただこの大石寺にしても、日郷師と日道師の間で「蓮蔵坊事件」が起きていた事から推察すると、そこでも日什師が幻滅を感じていた「法脈」とか「名誉」による同志争いがあったのですから、「もし」日什師が大石寺等の日興門流の寺院を訪問したとしても、恐らく同じ行動を取ったのかもしれませんね。

さて法華講員の方のメールは続きます。

「この日什という僧の立場をあなたもご存知であるかもしれませんが「経巻相承」といい、破門以降の現在の学会が盗用したと思われる義であり、大聖人の教えにアプローチしていこうとする姿勢そのものは現在のあなたと同じコンセプトを有する義です。であるならばあなたは顕本法華宗の信心をしようとするかといえばしないと思いますが、それはおそらく解釈の違いによってでしょうね。つまりこの立場は必然的に十人十色の価値観からもたらされる個々の解釈をそのまま反映させるがごときの禅宗のような姿勢なのではないでしょうか。つまりある特定の教えを信受しようとする立場の者たちがいかようにも解釈可能な信心を肯定する相対主義の態度であると考えられます。しかもこのことは前回のやりとりであなたが「宗祖を悪しく敬う間違った法華経の信心ですが、これはある意味で必然であると考えています」「個人個人がどの様に取り組むかが大事になるのではありませんか?」と述べられているところからもそういったことを承知のうえだったんですね。」

歴史には、それぞれの姿があり、その姿の奥にはそれぞれの真実というのが存在します。
僕自身、日什師の事について今回初めて少しですが、知る事が出来ました。単純に教条的な事で「経巻相承」が「否」という視点ではなく、そういう歴史的な背景を理解してから、それぞれの物事に対して自分自身の思考を元に考えていく必要があると思うのです。

あと一つ。ここで法華講の方は僕の思考についてて「個々の解釈をそのまま反映させるがごときの禅宗のような姿勢なのではないでしょうか。つまりある特定の教えを信受しようとする立場の者たちがいかようにも解釈可能な信心を肯定する相対主義の態度であると考えられます。」と述べていますが、僕は別に禅宗の姿勢を取っているわけではありませんので、誤解されても困りますね。

法華講の方や創価学会の人は、得てして人を「ステレオタイプ」として、近似的なある形にあてはめ、そこのステレオタイプに表現された形を否定する事で、相手の論点を封じるという技法を無意識に取ってしまいますが、その思考のままでは重要な点を見落としてしまうものです。

ここで法華講の方が僕を「禅宗のような姿勢」と言う拝啓には、僕自身のスタンスに「教外別伝」という事を感じた事から、そのような言葉を使用したのでしょうが、そもそも僕自身、宗門の言う様な事について、前の記事でも書いたように「寺院や僧侶には、文化としての様々な儀式や化義の伝承という為に、相承や血脈というのが必要なのかもしれませんが、僕は化義や儀式を伝承したいとは、全然思いませんので、そういった事には無関心です。」というスタンスです。

もちろん、他者の信仰の上の解釈については、否定する気は毛頭ありませんので、そこは法華講の方の受け取られた事通りかもしれませんが、それは「禅宗の様な姿勢」という事ではあり得ない話です。

そこについては、もう少し考えて頂きたいと思っています。


本日はここまでとします。


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