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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180708】人の心の動きについて

こんにちは(´・ω・`)

今日は暑いですね。
まあ梅雨明けしたと言われているので、暑いのは当たり前ですが。

九州、四国、中国、関西方面は豪雨で大変な事になっていますね。
今回は既に五十人を超える人達が亡くなっていますが、大雨でこれだけの人が亡くなる事は尋常ではありませんね。

いつもこういった報道を目にする度、考える事ですが、災害で亡くなる人達はその直前まで自分がそういった災害で亡くなるなんで考えてもいません。

特にご高齢の方は、人生を生き抜いてきて、そんな災害で亡くなるという事、どの様に思われるのか。。。胸が痛みます。

災害による死者五十人。
単なる数字で聞くのではなく、その一つ一つにかけがいの無い人生があるのですから、そういう感覚を忘れてはいけないですよね。

はたして政治家で災害の任にあたる立場にある人の中に、そういった感覚を以て今回の災害に当たっている人が何人いるのか。

被災された地域の方々の無事を祈らずにはいられません。

さて今日のお題です。
いま九識論について考えていますが、人の心というのはとても複雑かつ深淵ですね。



九識論というのは天台宗や華厳宗で言われている事で、もとは唯識派(法相宗)が提唱したものと言われていて、そこでは八識を立てていたんですね。八識とは阿頼耶識(蔵識)の事で、人々の言動により宿業を種子として蓄積する心の働きです。

しかし天台宗では阿摩羅識という「九識」を八識の更に奥に立てて九識論としました。
法相宗の玄奘三蔵は、八識で「清浄識」となったものを阿摩羅識と立ててましたが、天台宗ではそこの考え方が異なる様です。

この九識論の内容は「想学談林」にアップする為に少しまとめ始めているのですが、簡単に概略だけ説明すると以下の様になります。

◆五識
 ここでいう五識とは、眼・耳・鼻・舌・蝕(触れる)の事で一般的に五感にまつわる識(心の働き)を言います。九識論とは心の働きの事を説明している論なので、ここではそれらの感覚器官から得た情報を識別する心の働きを指しています。感覚器官はそれぞれ周囲の状況を感受する器官ですが、そこで得られた情報を取者択一して識別する識(心の働き)を五識と呼んでいます。

◆六識(意識)
 この五識から得られた事から今の自分の置かれている状況を認識し、そこに時間軸を想い、過去の事から未来の事まで考えている心の働きを六識(意識)という訳ですね。日常の中で自分自身だと思う心の働きはここにありますし、デカルトが方法序説の中で「Cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」と述べて、否定しても否定できない存在と言ったのも、この六識の心の働きを言います。
 ただこの意識ですが、病気や睡眠、また失神などで働きが停止する事もあるので、恒常的な心の働きではありません。

◆七識(末那識)
 人が日常から意識出来る識の奥底にあるのが「末那識」と呼ばれる心の働きです。昨今の深層心理で言われている心の働きはこの「末那識」に当たります。この識は、睡眠や失神、病による表面上の意識喪失であっても、その奥底で働く心の事を言います。夢や臨死体験等を引き起こすのも、この心の働きかもしれません。
 この末那識ですが、人が亡くなった後も継続するのか、しないのか、そこは議論が分かれている様です。これは僕の私見ですが、この末那識とは人が亡くなった後も存続するのではないかと思っています。つまり「根源の自我」と考えられるのは、この末那識の様に思えますし、この末那識とは次に来る阿頼耶識と常に連動した心の働きでは無いかと思うのです。

◆八識(阿頼耶識)
 この識は蔵識とも呼ばれ、過去から現在にかけての言動による業を蓄積している識と呼ばれています。この識は生死にかかわらず存在し、働き続ける心と言われていて、唯識派などは「心王(自分自身の本当の心)」と呼んでいます。アカシック・レコードというのも、この識から出てきているのではないかと思います。
 少し話は変わりますが、昨今、休息な技術的な進歩で人類は巨大な記憶媒体を作り上げました、そしてそこで言われているのは自己の記憶のすべてをその記憶媒体に記録する事が出来れば、人は永遠に存在する事が出来るという議論も出てきています。思うにそういった考え方とは仏教の唯識派に近い観点なのかもしれませんね。

◆九識(阿摩羅識)
 これは天台宗や華厳宗で提唱している心で、日蓮の言葉を借りれば華厳宗などは天台宗の提唱した内容を盗用したというのかもしれませんが、それは置いておきます。
 この阿摩羅識というのは日蓮も「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前御返事)と述べているように。根本清浄の識(心の働き)であり、真の自我とも呼んでいます。十界論でいう「仏界」というのも、この阿摩羅識の事なのかもしれません。

 以上、これが九識論について簡単な紹介となりますが、この九識論で興味深いのが、宿業などの蓄積する心のその奥に「真如」とも呼ぶ「心の本質の働き」を置いている事ですね。

 観心本尊抄で「是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」と、人々を教え導き、とても尊い存在が自身の心にある事を信じる事は難しいと述べていますが、その心の働きこそ阿摩羅識なんですね。そしてこの心は「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」(如来寿量品)として働いているとした場合、日常の私たちとの乖離はとても激しいものとなります。

 私たちが日常、自分の「本心」だと思っている心の働きは「六識(意識)」であり、せいぜい瞑想などでも認識できるのは「七識(末那識)」です。そして逆行催眠等で触れる事が出来るのは「八識(阿頼耶識)」であり、そこでは前世療法と呼んでいますが、いわゆる自身の過去世の事を語る訳です。
 御題目を唱えると様々な雑念を感じる事がありますが、それを九識論の上で論じてい見ると、おそらく阿頼耶識がうごめく事で、七識に雑念としてその動きが認識される事ではないかと思ったりします。

 しかしどの様にしても九識(阿摩羅識)について触れる事は出来ず、その事を日蓮も「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」(観心本尊抄)と述べるにとどまっていて、天台大師は「摩訶止観(大止観)」と呼ぶ修行法で、それを自覚する方法を編み出したのではないかと思います。また日蓮も「直達正観」と呼んだと言われていますが、疑わしいのが、この言葉は御書には記載されておらず、わずか本因妙抄にそれらしきものが書かれていますが、そもそも本因妙抄の後世の偽作が疑われています。
 日蓮自身、観心については「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」(唱法華題目抄)と述べているように、しっかりと学習して取り組む事を述べています。

 僕は輪廻転生という事をある程度認めている立場を取っています。とは言っても、一般的に考えられている様な輪廻転生観ではありません。恐らく人は、何かしら心の成長という目的をもって、その為に多くの生死の中を巡っているという事だと考えています。

 そしてその自分自身の心の成長という事を考えている実体が「阿摩羅識」である場合、やはりそこで考えている人生の観点と、日常の中で意識的に考えてる人生の観点には乖離がある様に思うのです。先にも上げましたが、阿摩羅識の観点では「速かに仏身を成就することを得せしめんと」という事で人生を予定している反面、私たちの日常は常に目の前の事象に右往左往してしまい、そこの事象の奥底にある意味をなかなか見据える事が出来ません。

「これだけ御本尊に祈っているのに、何も自分自身の祈りが叶わない」

 こんな言葉を創価学会の中でよく聞きますが、考えてみたら創価学会だけではなく、世の多くの宗教においても同じ言葉というのは、良くありますよね。

 信仰や宗教により、見据えなくてはならない事は、心の奥底にある「自分自身の本質」への理解であるはずが、日常の自分自身の右往左往する心に翻弄されているというのが、もしかしたら私たちの心の実情ではないのではありませんか?

 ちょっと、、、わかりずらい話となってしまいましたね。
 でも、ちょっと考えてみる必要のある事ではないでしょうか?

 本日はここまでとします。


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