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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180630】仏性に関する考察③

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この記事は土曜日に公開されるものですが、書いているのは木曜日です。
思い付いたら書いておかないと、最近の僕は直ぐに忘れてしまいます。

これは年齢に依るものなのか、はたまた疲れに依るものなのか分かりませんが、とりあえず忘れないうちに書いていきます。

創価学会では「仏性が備わる=万人は尊極な存在」と述べていますが、これは本当にそうなんですかね?

例えば一念三千という天台が構築した理論で、日蓮はこれを「理=理論上」といっています。そして自身は法華経の弘教を実践し、様々な迫害を通して体験した法華経に書かれている六難九易、また三類の強敵や弘教する際には数所を追われ、最後には命を狙われた事を通して、自身の法門を「事=事実上」と位置付けして事の一念三千と呼んでいました。

この一念三千は有情(心を持つ存在)から非情(心を持たない存在)まで、全てにわたり三千を具備する当体だといっていますが、それでは家畜や魚、草木に至るまで尊極の存在となります。

例えば人は動物の一部を家畜とし、それを殺して食することを行い、この家畜はある意味で人が食する為に産み育てられる訳ですが、その家畜は三千を具備する尊極の存在なのでしょうか?

それとも家畜等は三千の当体から外れるというのでしょうか?

人には仏性が備わり、それを苦しめ殺める事を否定し、それを「人間主義の思想」と言いながら、かたや同じ様に仏性が備わる家畜は殺し、またそこで得た肉類を無駄に破棄していますが、それはどの様に解釈したらよいか、考えた事がありますか?

立正安国論には「下とは蟻子乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生の者を除く」と、殺害するについて菩薩の変わった姿のものに対する事は除くとありますが、まさか家畜は菩薩の示現生だと安易に言いませんよね。

思うに仏性とは、確かに大事な心かもしれませんが、それは安っぽい現代版のヒューマニズム的な解釈で「尊極な心」と位置付けできるモノでは無いのではないか、僕はその様に思うのです。

これからの話は僕の勝手な解釈です、まあ適当に聞いてください。

仏とは三世に亘り如実に全ての物事を知悉している存在だと言います、そしてそれは「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」と常に考えていると言います。

ここでいう「仏身」が何を指すのか、それは解りませんが少なくとも人を精神的に向上、発展させる事を願っている心なのだと思います。
この様な心が全ての人の心の奥底にあり、この心が、その為に様々な九界の姿を「敢えて」現じさせる為に働いているとしたらどうでしょうか。

そうなると「仏の心=仏性」というのは、単にヒューマニズム的な尊極で素晴らしい心という訳ではありませんよね。人が悩みと苦しむことを敢えて作り出しもする存在だと言えるのかもしれません。

しかしそこには「毎自作是念」という目的が常にあるとしたら、どうでしょうか。

この世界で人の心とは表面に見えるだけのものではない。その様な事が解り始めたのは19世紀末あたりからです。しかし仏教ではそれ以前に唯識派という人達が、その心の構造の奥深さを知っていました。

人の心の動きというのは、とても深くて理解することが難しいと言いますが、そこの奥底にこういった「仏性」があるとして、それが単に尊極で荘厳された仏では無く、様々な苦悩も喜びも作り出す本源だとして、その目的が一人一人の「成仏=魂の成長」だとしたら、人生の見方を大きく変えなくてはならない事ではないでしょうか。

すこし考えて見る必要がありますよね。

まだまだ続けますよ。

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