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想学談林―管理者のブログ

50代に突入した創価学会の元活動家のブログです。 日蓮や仏教の事について、日々考えていますが、その事についてはこのブログとは別に、「想学談林」というホームページにまとめています。 ここでは日々に考えた事についてつらつらと書き連ねています。

【20180629】仏性に関する考察②

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日の記事では九界即仏界・仏界即九界の事について書きましたが、この事について根拠は無いわけではなく、開目抄では以下の様に日蓮は語ってます。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」

 ここでは法華経如来寿量品で久遠実成を明かす事で、法華経以前で述べられていた成仏観(四教の果)が壊された事を明かし、それによって法華経以前に説かれていた成仏の為の修行(四教の因)も破られる事を明かしています。そしてこれはとりも直さず法華経以前の仏と衆生の考え方もうち壊した事を明かし(爾前迹門の十界の因果)、本門の成仏観を打ち立てられた事だと言うのです。

 そしてその本門の成仏観とは「九界も無始の仏界に具し」と有るように、人の心の日常ある働きというのは、元より心の奥底にある仏の心の働きに依るものだと述べ、「仏界も無始の九界に備わり」とある様に、過去遠々刧からの心の働きに仏の心は常に備わっていた事を明かし、そこから「人は元来から仏である」という成仏観を打ち立てた事を述べています。

 以前にこの事を述べたら「それは天台の本覚思想だね」と言われた事がありますが、本覚思想と僕のニュアンスは若干異なるものです。

 本覚思想では仏とは既に自身のなかに有ることから「悟りのために改めて修行する必要はなく、あるがままの衆生の姿が本覚であるという思想に発展していきます。」と言われていますが、そんな理屈はかなり乱暴な言葉ですよね。

 「本源的に仏であるなら、ありのままで良い」なんて話は有るわけがなく、どんな人間でも九界という心を感じて、そこから悩み苦しんだりしているわけで、「なにもしなくて良い」なんて言っても、その事は何ら解決される事もありません。

 自身の中に本源的に仏の心があるとして、では何故自分は悩み苦しむのか、そこへの問いは終らせるものでは無いのです。これはつまり、その苦悩や悩みと正面切ってぶつかる必要を示し、その先に自分自身の今の「生きる=生」に対する理解と納得が必要になるという事ではありませんか?

 その為に必要な事となるのが、自分自身への深い理解であり、そこから自分と社会、そして生きている環境世界との関わりを理解する事であると思うのです。

 物凄い要約した言葉で言えば「この自分自身が生きている事に、どんな意味があるのか」という事への問いと、それに対する自身の思想や行動。そういった事への取り組みは必要であり、何もやる必要は無いという様な「本覚思想」なんて、たんなる現実逃避の言い訳にしかなりませんよ。

 仏教でいう仏とは、天台教学の面から言えば「三惑已断」と言われてますが、そういう自分自身や全ての物事のとの執着には囚われない、心が自分の中にあるのです。
 また仏とは三界を知見し、遠い過去から時間軸では遠い未来まで、無始無終の存在として心の中にあり、法華経如来寿量品の自我偈の末尾にある以下の言葉。

「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」

この様な働きを、自分自身の深層心理のそのまた奥底でしていたとしたらどうでしょうか。

すると人生に起きる様々な事が、別の角度で見えてきたりしませんか?

この話、まだまだ続けます。

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